【等身大の僕】

今、僕は毎日が猛烈に楽しい。
自分の感情に素直に従って決断した先の環境にいるからだ。

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僕は今、AOHLDGSという会社で、BEATSというパーソナルジムの営業をしている。
ジムのトレーナーではない。営業だ。
「ジムの営業?」
この文章を読んでいただいた方の、そんなリアクションが絵に浮かぶ。

僕も初めはこの仕事が全く理解できなかった。
「ジムの営業ってなんだよ。笑」そう思っていた。

じゃあなぜ、この仕事を始めたかっていうと

代表の芦名に猛烈に惹かれて、
そして自分の可能性を試してみたかったからだ。

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僕は、兵庫県出身の5人家族で3人兄弟の長男として育った。
父が居酒屋の経営をしており、帰ってくるのはいつも朝方だったのでほぼ寝ている姿しか見なかった。父は休みもほとんどなかったので、僕は母親に育てられた記憶しかない。

僕の父は、居酒屋の店長らしい陽気な性格で、阪神タイガースが優勝した時には、
仲間を集めてビールかけをして、騒いで川に飛び込んだりしていた記憶が鮮明に残っている。
そんな父を恥ずかしそうに見る、母親を見て育ったのもあり、僕は目立つことが悪いことで皆んなに合わせることが、えらい事だと思っていた。
僕は長男ということもあり、とにかく母親の期待に応えたかった。


そのために絶対に「失敗」してはいけなかったし「良い子」でないといけないと思っていた。


僕は、小学校からサッカーをしていた。
チームでもそこそこ上手い方だった。
普通なら中学校に上がるタイミングで、クラブチームに行くのだが、僕はそこで活躍できないかもしれないというのが怖くて、クラブチームの選考さえ受けなかった。


結果、僕は地元の中学校のサッカー部に入部して50人以上のチームのエースで背番号10番でキャプテンも選ばれた。
勉強では、中学校1年生の時に母から言われた「5教科で400点取れたらすごいらしいよ」
って、その言葉をずっと覚えていて、400点を超えるようにテスト勉強を頑張った。
3年間400点を切ったことはない。いつも母が褒めてくれた。


そして高校も母の期待通り、地元では偏差値の高い県立伊丹高校に進学することできた。
県立伊丹高校はサッカー部が強かった。だけど僕はサッカー部には入らなかった。
サッカーは飽きた。。とかそれっぽい理由をつけてラグビー部に入部した。本当は活躍できる自信がなかっただけなのに。
勉強面では、母から「関関同立って知ってる?佳樹がそこにいけたらすごいなー」って
家から入学式まで送ってくれている車の中でボソッと言った一言が頭から離れなかった。大学名なんて一切知らなかったけど、そこに行くことだけはその瞬間に決めていた。
そして、僕は母の期待通りに関西大学の法学部に進学することができた。


ここまでの進路は、全て母に決めてもらったようなものだ。
失敗しそうな環境から逃げ続けて、そして母親の人生を生きていた。
自分で大きな決断をした経験なんて一度もなかった。
それでも周りからは「佳樹はすごい」「本当にえらいねー」と褒められ続けた。
世間の物差しで測った時に、僕は「良い子」だった。


大学入学後は、母から何かを求められることもなかったのでとりあえず卒業できるくらいに単位を取って、バイトやサークルに行って
服にお金をかけて、たまに合コンに行くっていう普通の大学生だった。
だけど、大学2年生の後半に猛烈な危機感に襲われた。こんな何にもない僕が大企業に就職できるのか?大企業に就職したら母が喜んでくれるだろうと勝手に思っていた。
周りが誰も就職活動をしていない時期から、猛烈に就活の準備をして3年生のサマーインターンでは、財閥系の銀行から、難関と言われるベンチャー企業のインターンまで行きたいところは、ほとんど合格した。

天狗になって臨んだネオキャリアという企業でのインターンで僕の人生は変わった。
参加者は、全国から集まった優秀な人たちばかりで、学生団体で代表をしていたり、自分の意思を持って自転車で日本一周してる人がいたり、東大で僕が理解もできない政治系の活動に本気で打ち込んでいたり、大学一年生からIT企業で長期インターンをやっている人がいたり、、、
みんな、自分のやりたいことに猛烈に打ち込んでいるキラッキラした人達ばっかりだった。
自分より優秀な人達の中で、猛烈に居心地が悪かったし、失敗に対して敏感な僕は参加した瞬間に失敗しそうな未来が見えた。
いつもだったら言い訳をして失敗しそうなこの場から逃げていただろうが、2泊3日の泊まり込みのインターンで僕には「逃げる」という選択肢はなかった。

案の定、僕は失敗した。
自分にとって人生で初めての挫折だった。

皆んなが真剣に自分の感情をぶつけながら議論している中で、僕は何も発言できなかった。
自分が発言できない無言の時間の中で自分の弱さにひたすら向き合わざるを得なかった。
自分の意思で決断したことがなく、自分の感情でチャレンジしたことない僕は、なんの実力もない、ただの白紙だったことに気づかされた。

失敗を恐れて見栄ばかり張って、
等身大を晒け出さずに生きていた自分は
猛烈にダサいと気付いた。
その時に僕は決意した。

自分自身の感情を大事にしよう。
失敗を恐れずに、自分の実力ではなく、
その先の可能性を信じて行動しようと。

かっこいい実力のある男になりたいと思い
ディスカッションのコツとか面接対策ばかり勉強する小手先の就活をやめた。

実力をつけたくて、大学生ながら営業を始めることを決心して「G-cruise」というNTTの代理店でフルコミッションの飛び込み営業を始めた。
そこに居た人たちは、本当にすごい人達ばかりだった。めちゃくちゃイケてて、めちゃくちゃ稼いでて、自信とオーラがすごかった。

それまでの自分だったら絶対にしていない決断をすることができた。
周りからは「意識高いなー」とバカにされ、「怪しいからやめとけ」と否定された。
でも、その時は何より自分の感情を優先し、自分の可能性を信じることができた。
僕の意思は固かった。
「自分自身の決断」だったし、自分自身の理想が明確だったから。そして、ここで変わると決めていたから。

でも、営業なんて全く知らない僕の
営業初月、、気合いは十分だった。
本当に1日も休まずに朝から晩まで働いて
稼げた給料はたったの1万円ほどだった。
それでも、僕はこの環境での成功に向けて、一ミリもブレることはなかった。
プライドを捨てて、できない自分を認め、大学1年生の先輩営業マンに頭を下げて頼った。
そして2ヶ月目。何よりも結果にこだわり、僕は目標としていた1ヶ月で20件の契約を
営業最終日に達成した。あの契約は今でも忘れない。僕は学生ながら30万円以上稼いだ。

僕は初めて失敗しか見えない環境に飛び込むことができて、実際に失敗して、そして何より初めて失敗を乗り越ることができた。

その時、猛烈に毎日が楽しくて「俺はなんでもできるんじゃないか」っていう自信がついた。あの時、本当に自分はなんでもできると思った。

そのあと、「G-cruise」で営業マネージャーを任され、人事部の立ち上げを経験させてもらい、学生ながら固定給をもらうまでになった。

「仕事」が人生を変えてくれた。
そんな、人の「仕事」に携わりたくて
人材企業のパーソルキャリア(当時インテリジェンス)に入社を決めた。
その時には自分の感情だけを大事にして、
母にアドバイスを求めることはなかった。


パーソルは本当に優秀で仕事に熱い人が多く、自分にとって文句のつけようもない
素晴らしい環境だった。本当に日々成長を感じられて、たくさんの出会いにも恵まれた。

でも、僕はそんな自分の環境を変えた。誰も知らないAO HLDGSという小さな会社に。
それは、代表の芦名の男としての底知れない魅力と、AO HLDGSという自分の実力次第でどこまでも結果を出していける…この環境に自分の全ての時間と全ての可能性をかけて
チャレンジしたい!!という燃えたぎる自分の感情に素直に従って決断した。



そして「今」、一年前には一ミリも想像できていなかったようなワクワクする「今」を生きることができている。

失敗を恐れず、自分の可能性を信じて、
自分の感情に素直にチャレンジした結果、、
今、僕は間違いなく「自分の人生」を生きることができている。

こんな僕でも自分の感情に素直に、チャレンジすることができた。一度きりの人生、自分の人生を生きることができている。

こんな僕でもできたなら、
誰にだってできるはず。

この世の中がもっと自分の感情に素直に
チャレンジングになるように、

まず僕自身が、自分の感情に素直に、
自分の可能性だけを信じて、絶対にチャレンジをやめない人生にしようと思って

今、猛烈に楽しみながら仕事をしている。


僕が運営しているBEATSというジムの話はまた今度。

森山 佳樹 | AO HLDGS

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